長い歴史を誇る箱根駅伝には数々のアクシデントがありました。箱根駅伝のアクシデントはレースそのものに大きく影響します。ここでは、今でも記憶に残るような驚きのアクシデントやアクシデントにまつわる感動のストーリー、アクシデントの取り扱い方の賛否を紹介しています。
目次
1987年の箱根駅伝のアクシデントとは?
日本テレビの中継がスタートした1987年の箱根駅伝で、サングラスにジーパン男が沿道から飛び出し、首位を快走していた順大10区の工藤康弘選手(2年)に並びかけました。
警備員の制止を振り切ると、工藤選手に足をかけて転倒させました。
工藤選手は右肘から出血して負傷し、関係車両にも危うくひかれそうになりました。
工藤選手は、アクシデントをものともせず、レースを再開し、区間4位の力走でチームの連覇に貢献しました。
現行犯逮捕された20歳の専門学生は「邪魔する気はなかった。興奮して目立ちたかった」と後に話しています。
1990年の箱根駅伝のアクシデント(その1)とは?
1990年(第66回大会)の1区で、残り3キロとなる六郷橋付近で先導する車両がコースを間違え、全15選手が誤ったコースを走りました。
トップを走っていた日大の谷川義秀選手(2年)は「まったく気付かなかった」。2位以下の選手も続々と誤ったコースへ続きました。
13位で通過した東洋大の出水田洋選手(2年)は異変に気付き「交通規制されてなくて、車が通っていた。レース後、チームメートに『お前だけ正しいコースを走っていれば区間賞だっただろ』と言われました」。往路直後の監督会議で説明があり、全チームが同じ条件になったので問題はないと承認されました。
1990年の箱根駅伝のアクシデント(その2)とは?
1990年、亜大6区の田中寛重選手(1年)が復路をスタートし、約50メートル走ったところでタスキを忘れたことに気づき、血相を変えてスタート地点へ戻りました。
忘れないように、目立つ場所にと、付き添いの先輩の首にかけていたタスキを受けとると、1分ロスして山下りを再スタートです。
途中で足のけいれんもあり区間15人中14位に終わり、亜大は最下位でしたが、誰も田中選手を責めることはなかったといいます。
タスキがつながらない涙は数あれど、駅伝の命ともいえるタスキを忘れるハプニングは、忘れられない珍事として人々の記憶に残っています。
1991年の箱根駅伝のアクシデントとは?
体調不良によるフラフラ走行、途中棄権はつきものですが、印象深いのは1991年の箱根駅伝です。
早大の「三羽鳥」と騒がれたスーパー1年生ルーキー武井隆次選手、櫛部静二選手、花田勝彦選手が1~3区で起用されました。
武井選手からトップでタスキを受け「花の2区」を任された櫛部選手は快調に飛ばしましたが、残り5キロ地点で脱水症状になり、14位まで後退しました。
蛇行しながらなんとかタスキをつなぎました。
大会直前、軽い食中毒になったことが原因だったそうです。
2年後、櫛部選手は1区で区間新をマークし、早大の完全優勝に貢献しました。
櫛部選手は、現在城西大学男子駅伝部監督です。
2011年の箱根駅伝のアクシデントとは?
2011年、箱根駅伝史上まれに見る大混戦のシード権争いが繰り広げられました。
最終10区の中継所で8位から13位まで1分9秒差です。
残り1キロを切って、集団となっていた8位以下の4チームが一斉にスパートしました。
抜け出して11位から8位に躍り出た国学院大アンカー寺田夏生選手(1年)は、残り150メートルで、コース外にそれた中継車につられてコースを間違えました。
「あれ、みんな来てないなって。人生で一番焦りました」。必死で声をかけた警備員の指示でコースに戻った時には11位に後退していました。
それから、1人抜いて10位でゴール。
11位のチームと史上最小「3秒差」という激戦を制し、劇的な初シード獲得となりました。
2017年の箱根駅伝のアクシデントとは?
2017年の箱根駅伝の復路が開催された1月3日、選手が交差点を通行中の自動車に轢かれそうになるアクシデントがありました。
ゴール間際の第10区でアンカーを務めた神奈川大学4年生の中神恒也選手が、日比谷交差点(東京都千代田区)を通る寸前、前方を横切っていた白いワンボックス車に轢かれそうになりました。
直前で中神選手が立ち止まり、間一髪で事故は免れました。
ネット上に投稿された動画を見ると、一時的に通行止めになっているはずの交差点を複数の車が横切っており、警察官が「車、止まってください!」と大声で制止しようとしていたようです。
「 もう少しで大事故になるところだった」と波紋を呼びました。
「さすがに命の危険を感じたので止まりました」と後日ツイート。その後も力走し、総合5位でフィニッシュ。12年ぶりシード権獲得に貢献しました。
2018年の箱根駅伝のアクシデントとは?
2018年の箱根駅伝で、青山学院大学の2区の森田選手が区間賞、3区の田村選手も区間2位でまとめました。
それでも「圧巻だった」(原監督)という東洋大に徐々に差を広げられ、青山学院大学は5区のスタート時点で2分3秒の差をつけられていました。
「タイム差は関係ない。5区は自分のリズムで走れるか」と竹石選手は、上り坂も涼しい顔で淡々と駆け上がっていきました。
ハプニングは残り5キロ地点あたり。両脚のふくらはぎと太ももがつりました。
「中途半端な状態で走るより、一回切り替えよう」と、あえて歩を止めてコース上でストレッチ。わずか2、3秒で何事もなかったかのように再び走り出しました。
冷静な判断が功を奏し、ブレーキになることなく区間5位で走りきりました。
「止まってしまう怖さはむちゃくちゃあった」と吐露しましが、東洋大とのタイム差を36秒まで縮める殊勲の走りでした。
2019年の箱根駅伝のアクシデントとは?
2019年の第95回で大東大がレース開始30秒でまさかのアクシデントに見舞われました。
3度目の1区を任された新井康平選手(4年)が、スタートから約200メートルのところで他選手の足を踏み転倒、足を路面に激しく打ちつけました。
残り約21キロもあり、奈良修監督は途中棄権も考えたというが、チームメートが新井に声を掛けた際、右腕を挙げて(大丈夫と)答えた意もくんだと語っています。
終盤は苦しそうに痛めた足を引きずり、かばうようなフォームで、何とか走り切りました。レース後の診察では骨に異常はなかったといいます。
その際スタート直後に転倒し、けがをしながら走っていた大東文化大の新井選手への実況が「感動的だった」ことへの賛否が起きました。
タスキを渡す中継シーンに差し掛かるときには、テレビ実況解説のアナウンサーも力を込めて「4年生!最後の箱根駅伝。意地だ、この気持ちだ!気持ちで走ってきた21キロ!」と絶叫しました。
鶴見中継所に待つ次走者の様子は「その目にも涙が浮かんでいるか」と伝え「見事に大東文化大学、タスキを繋ぎきりました!」と叫みました、
この状況に、Twitterなどを中心に「朝から感動をありがとう」「親子で泣いた」「執念の襷をつないだ」「魂のたすきリレーだ」など心を動かされたという人が続出しました。
一方で、「棄権させないのか」という意見や、2018年10月のプリンセス駅伝で骨折しながら「四つんばい」でタスキを繋いだ選手の件に触れて「学んでいない」という人もいました。
大迫傑選手も「心配する場面ではあるけど、感動する場面ではない」と問題提起しました。
まとめ:箱根駅伝のアクシデントは?感動と驚きのストーリーとは?
長い歴史を誇る箱根駅伝で発生した、忘れることのできない数々のアクシデント。
箱根駅伝のアクシデントにより、そのレースの順位も大きく変動します。
ここでは、今でも記憶に残るような驚きのアクシデントやアクシデントにまつわる感動のストーリー、アクシデントの取り扱い方の賛否を紹介しました。
令和初の箱根駅伝は、アクシデントに見舞われることなく、無事に全チームが力を出し切れることを願います。